カンカン鳴る音

踏切の音が聞こえる日常、雑記。

これからを考える話

ゴールデンウィークは暦通りにはたらいた。短い間隔で訪れた3連休の2連続は、それぞれほとんど予定通りのスケジュールをこなし、これまで積んでいたやりたかったことを片付けたりただひたさら休んだりしていたので、比較的充実していたといえるだろう。

ひたすら休みすぎて、少し時間が狂ってしまった。これは休みによくあることだし、休みが明けたらまた戻るだろうからきっと大丈夫。いや、でも本当に戻るのだろうか?

実を言うと先月の後半くらいからだろうか、じわじわと迫り来る何かにずっと怯えている。原因はわかっていて、ひたすらに畏怖を抱く相手にであってしまい、私の感覚という感覚が彼女への劣等感に苛まれているのだ。こう書くとなんてくだらなくてちいさな人間なのだろうと思うが、しかたない、いま、これを吐き出せないことが最大のストレスなのである。

私はよく気が散る。多分周りをよく見ているだとか、気が効くだとか、気がつくといった私の概ね"良いところ"は、つまりは気が散っているだけなのだと思っている。すぐ気が散るからこそ、自分の芯を持っていないと生きていけないし、根拠のないようにみえる自信を、直感でもって信じていないと、ありとあらゆるものに影響されて、立っていることすらできないのだ。そうやっていままで生きてきたのに、たまに土台が揺らぐとこうも不安定になるものかと、頭を抱えてしまう。

加えて環境の変化や仕事の責任の変化など、またストレスの種が撒かれて、芽を出し始めていることにも気がついている。ここで声を大にして伝えたいのは、ストレスがかかることが嫌なわけではない。むしろストレスのない生活の方が私は向いていないと自覚している。ただ、ストレスがかかるのは事実であるし、それに伴う気持ちの変化や体調の変化が起きてしまう可能性もとても高い。でもそれは、誰のせいでもないし、生きていく上で、成長していく上で、必要不可欠なことであるのだから、あるがままに受け止めるのがいちばんの正解なのだと思う。

ストレスの原因を強引に取り除くのは、簡単だ。でもそうしないで、自らにフィルターをかけて、コントロールしようとして、なんとかこうやって生きているということを、どうか後ろ向きに捉えないでほしい。私は私を生き抜いてやりたい。ただ、それだけなのだ。

つねづね、どうして私は一人で生きていく道を選ばないんだろうと時々考える。明確な理由は分からないが、あえて強引に言うならば、私は自分自身の能力を最大限に引き上げることで、大切な誰かとその周りの人をしあわせにしたいんだろうと思う。それが叶う場所を、ひたすら探し続けている。