カンカン鳴る音

踏切の音が聞こえる日常、雑記。

episode 96

数日前にメモに残しておいた文章を晒しておく。

はっきり認めてしまうが、ここ1週間以上、調子が悪いのが続いている。なんとなく理由はわかっているようで、本当のところまではわかっていないような、そんな複雑な心情でいるというのが現状だ。やや定期的にこういう状態には陥るので、じっと耐えていればいつか元通りだろうと頭ではわかっているが、どうにもいつもより「いつか立ち直れるだろう」という希望が見えずにいるのが厄介なところである。
こう調子が悪いときは、自分のやるべきことを必要以上に煮詰めて考えていたり、自分以外の人の行動を必要以上に追いかけて重箱の隅をつつくような批判ばかりしてしまったりしてしまう。これは大抵自分以外のことを気にしすぎているのが原因で、「自分のことを一生懸命取り組む」ことをすれば自ずと気持ちは上向きになるものだとわかってはいるのだが、ここ数日はそれすらもうまくいかない。常に頭が考えるのをやめてくれず、周りのことがいつも以上に見えてしまい、自分の視界を遮るってくるような気持ちになる。ざらざらして、とげとげした状態を、悟られないように、見つからないように、そっと自分の殻に閉じこもろうとしている。でもわかっているのだ。閉じこもってしまうと、なかなか外からは開かなくなるということを。結局自分の意志で閉じこもったものは、自分の意志でしか開かない。そんなことはわかっているのに、どうしても力が入らなくて、いっそのこと閉じこもってしまいたくなる。

悔しいな。我ながらうまく生きていると思っていたのに。特に今年に入ってからは、厄年の反対の意味で吉年なるものがあるとしたら、それなのではないかと思うほどいろいろなことがうまくいっていたはずだった。いや、今でも目に見える範囲ではうまくいっている方だろうし、いや、だからこそ、きついんだろうとも思っている。自分では見せていないつもりだけど「その立場だとストレスがたまる」と第三者にいわれたことで、「そうかストレスを感じてもいいんだ」というようにしてリミッターが外れてしまったようだ。私には、痛みや辛さに弱い自覚があるからこそ、痛みや辛さに鈍感であろうとする癖がある。それでいて単純なので、第三者にたとえば「つらくていいんだよ」のような優しい言葉をかけてもらうと、それまでの耐えていたストッパーをすべてとりはらって、許容できる量以上の痛みを浴びることになる。誰かに話すことでストレスが解消されるとはよくいうが、それによってダメージを負うことがあるのも、また自分の場合は事実なのである。
もうこうなってしまえば、本当の意味で時が解決してくれるのを待つしかない。しかしどんなにつらくても毎日を生きなくてはいけないし、仕事は仕事として取り組まなくてはいけない。きつい。情けないけれど、今は本当にきつい。しかし、今ここで吐き出したことで少しだけすっきりした。反撃するにしても、反撃する元気がなくてはできない。今は魂を休ませるときなのだろう。

episode 95

実家に帰っていた。申し訳ないくらいよくしてもらって、すぐ「子ども」に戻ってしまう。家族が全員揃うのは2年ぶりだった。実家を出て6年目。社会人になって2年目。弟も短大卒なので社会人としては同期になる。家族が揃うのって大変なことなんだと知りつつある。あと何回会えるんだろう。まだまだ元気でいてほしい。せめて、自分の子どもが成人するのは、父にも母にも見てほしい。と、自分に振り返って考えると、わたしは両祖父とも成人前に亡くしていることを思い出してつらかった。いつまでもわたしは彼らにとって子どもであり続けるのだけど、成長する姿を限界まで見届けてほしいと願うのが、親孝行になるのだろうか。
パーソナルカラー診断を受けた。母は秋色。父は春色。弟は秋寄りの春秋ミックス。わたしはきっと、夏か冬だろうと思っていた。結果は夏色。唯一のパステルカラーらしいが、日本人で一番多いらしい。診断ものって、少数派になることが多かったので、少し悔しかった。でもそれに伴う性格や周りからの見られ方は納得できるところも多くて、そしてなにより、親族の中で似てるといつも言われる叔母と一緒だったことが妙に納得させた。淡い色は好きだが、ここ数年あえて避けてきたところもあった。「子どもっぽい」、そんな風に言われるのが嫌でしかたなかった。でも自分の特性がそこにあるなら、それを活かして生きるのがいちばん楽だと思う。無理しなくていいのだ。なんとなく、そう思うだけで、気持ちが楽になった。

episode 94

びっくりするほど小さなことにひどくひどく動揺して立っていられないような気分になるときがある。そういうときはたいてい休みが必要なときで、さすがにどうすればいいかくらい学んでいるつもりではあるけれど。自分の中の火みたいなものがなくなってしまっていて、いつまでも元気になれないんじゃないかと不安で仕方なくなる。
話は変わるけど、元気って単語の元気じゃなさそうさはなんなんだろう。前から思ってはいたのだけど、少し見えてきて、たぶん、「元の気」が明るく溌剌としていない自分は、「元気」という言葉の組み合わせを明るく溌剌な風には捉えられないのだろう。もっとも、元気の定義がなんなのかという話ではあるが、そこを考えると、なんとなくどういうことか見えてくる気がする。
そんなことを考えてしまうくらいには頭が疲れてしまっている。もう誰も私に構わないでくれ。適当なことばかり言わないでくれ。まぁこういう風に辛い思いができるのは、良いことなのかも知れないけれど。

episode 93

人と同じ土俵に立たないようにしている。理由は他人を気にしすぎてパフォーマンスが下がることが増えてきたから。いまの私にとってはそれがいちばんやりやすくて、安定につながっているのだけど、でも、苦手なことから逃げているように見えていることもあるようで。そこをつつかれると激しく動揺する。そんな時間を作らさせられるくらいなら、好きにやらせてくれという気持ちなのだけど、どうにもうまくいかない。誰が最初に気付いてくれるのかなぁなんて思っている自分が嫌だ。私は私のことにだけ集中して、誰にも真似できない存在になりたいだけなのに、そう思うこと自体が周りと比較する自分を認識させられるようでつらい。うまくはいかないものである。

episode 92

今日は父の日だ。といってもなにか特別な贈り物をするなどといったことはしなかったが、せめて連絡だけでもと思い、メールを送った。
私は自分の父親をとても尊敬している。どこがと言い出すとキリがないのだが、要するに「こういう大人になりたい」という目標が父親なのだ。父はよく本を読む。ラジオもよく聴く。とても物知りで、とても変わった人だ。父親と私のメールのやり取りは基本的に長文になる。お互い言いたいことを言うだけなので、おそらく会話になっていない。でも互いにそれで良いのだと勝手に思っている。だって私の父親なわけだから、ほとんど同じことを考えているだろう。いま思い出したのだが、「人の話を聞け」よく母に言われたけれど、父にそう言われたことはなかった。母としてはやりづらい家族であっただろうと思う。ちなみに私は母親のことも尊敬している。話が逸れたが、父とメールをしているととても泣きたくなるときがある。というか毎度泣きそうになる。父は寡黙な人なので、あまりストレートに愛情を表現されたことはない。ただ不思議と包まれている感じはあって、不満を感じたことはなかった。文章になると、ところどころに父の感情が表れる。おそらく父は口にする言葉で表現するより文章で表現することに長けている人なのだろう。そういうわけで、私は父からのメールに毎度泣けてくるのだ。
来月実家に帰る。父には約1年ぶりに会うことになる。あと何日会えるのだろう。あまり考えないようにしているが、はやく心配をかけない子どもになりたいと思うばかりなのである。

episode 91

今週はがらりと変わった環境に慣れることで精一杯の一週間だった。仕事内容自体は今月に入った段階で変わっていたのだが、席がこれまでと変わらなかったので、多少戸惑いながらも自分のペースを守ることができていた。しかし今週から席を引っ越し、一般的にいう総務部のような場所に来ることになり、念願の個人机でモニターを使いつつ仕事ができるようになったのは良いものの、まぁなんというか、端的に言うと雑務が増えた。代表電話の対応、来客対応、お茶汲み、その他それぞれの人からのちょっとした頼まれごと。いやはや前任の先輩がこれをすべて嫌な顔一つせずやってくださっていたかと思うと逆に心が痛む。私の場合、本業の方がまた別にあるので、本当にきつくなったら無理だと投げることが許されている。まぁその範囲も知らず頼まれることも多いのだけれど、それはまた別の問題だろう。なんとかうまくやっていこうと思っているが、糸が切れなければ良い。
普通、自分以外の相手に自分以上に気を遣うことなんてないのだ。それぞれがそれぞれに勝手なことを考えていて勝手なことをしたりする。そうやって乱されることもあるけれど解決できることもあるのだろう。私にできることは「相手は変えられないと知る」ことだけだ。それは私にとってはとても哀しくて、受け入れがたいことなのだけども、言い方を変えれば私は誰にも変えられないということでもある。自分の信じた道を一生懸命進むしか、今の私の心が晴れる術は無いのだろう。

episode 90

最近そこそこ調子が良い。いろんなことに対して人から褒められることが多い気がしている。自分の中でも、先日(といっても大分前だが)書いたタスク管理が割と上手くいっていて、毎日をこなすことが楽しくなってきているところだ。おそらく『ハイ』な状態になっていて、だから先週のある日は人知れず体調を崩して早退し寝ていたりした(もちろん上司に報告している)。
予定が未定であることが精神的に不安にさせるだけでなく物事に取り掛かるスピードやその後の効率性にも影響を与えるということがわかったので、なるべく計画を立てて取り組むことにしている。自分の中で全体像を把握し、こまかな到達点の目安を立てて取り組むことが一番効率的なのだとわかってから、仕事がとても楽になった。しかし、どこかでそわそわした気持ちを抱えているのもまた事実である。自分が立てた計画を遂行できると「まだ甘いのではないか」「足りないのではないか」と考えてしまう自分もいる。それに引き摺られないように計画を立てているわけだし、誰にも何かを言われているわけでもないのに。
そわそわする原因は仕事のやり方だけでなく、質に関してもあると思う。いま自分がつくるものが評価されているのはビギナーズラックであるという自覚。未熟な感性が斬新に写っているだけなのだろうという自己認識。それが自分をやんわりと苦しめている。いまの武器は3年後は通じない。いま持っている感性が数年後も武器として使える保障はないのだ。なにかをつくる仕事に正解はなくて、きっと変わり続けるものなのだろうと頭で理解はしているのだけど、一方で予定が未定を嫌うつくりをしている私の脳は、その不安定さが時折ひどく恐くなるのだ。
どんな不安を抱えていようと、明日はやってくる。ハタから見れば「うまくいっている人生」を演じきることに迷いは無いが、何かのバランスを崩すのがすごく怖いと思ってしまう。やはり私はどこかでセーブをかけながら生きているのだろう。苦しみを自覚していることに無自覚であることが、私を『私』として見せていく術なのだと思う。